「藤浪晋太郎がいたから断った」ロッテ田村龍弘が明かす大阪桐蔭辞退の理由と大谷世代“最後の1人”としてのキャリア

大谷翔平世代で唯一NPBに残るロッテの田村龍弘が、大阪桐蔭からの誘いを断った理由や高校進学時の選択について語る。「藤浪がいるから無理」と投手を諦め、打者としての道を選んだ田村のキャリアは、多くの困難と選択を乗り越えてきたものだ。
「藤浪晋太郎がいたから断った」ロッテ田村龍弘が明かす大阪桐蔭辞退の理由と大谷世代“最後の1人”としてのキャリア

2023年、30歳を迎えた大谷翔平世代(1994年度生まれ)の選手たち。2012年のドラフトでプロ野球(NPB)に入団した高卒組は計27人がいましたが、現在も現役でプレーしているのは千葉ロッテの田村龍弘ただ1人です。かつての天才たちの中で、“最後の1人”となった田村に、彼の歩んできた道のりや高校進学時の選択について話を聞きました。

大阪桐蔭からの誘いを断った理由

田村は中学時代、大阪府狭山市で育ち、地元の強豪チーム「オール狭山ボーイズ」で活躍。投手兼捕手として全国的な評価を受け、ボーイズリーグ日本代表にも選出されました。当時からその実力を高く評価されていた田村には、名門・大阪桐蔭高校からもオファーがありました。しかし、彼はそれを断っています。

「なんか、ピッチャーとして来て欲しいみたいな感じで言われて。藤浪が来ることも知ってたし、もうピッチャーはやりたくなかったんです。同じリーグでやってたんでわかるじゃないですか。エースは無理やな、って。藤浪は中学で140kmくらい投げてて、伸びしろはまだまだあったけど、僕はもう身長が伸びる気もせんかったし」

中学時代の藤浪晋太郎(現マリナーズ)はすでに身長194cm、最速142km/hを記録する大型右腕でした。一方で、田村自身は中学時代に168cmほどありましたが、その後ほとんど伸びず、最終的に172cm止まりとなりました。この時点で、投手としての限界を感じていたといいます。

「ピッチャーとしての限界は見えてたんで。これ以上、球も速くなんねえんだろうなって思ってたし。でも、バッターならまだまだできると思ってたんで」

選んだ道は青森・光星学院へ

大阪桐蔭を断った田村が最終的に進学を決めたのは、青森県八戸市にある光星学院(現・八戸学院光星)でした。当時の北條史也(元阪神)とともに、この地方校への進学を選択しました。

「北條が一緒に行こうと言うんで。光星と言われたとき、どこやねんと思いましたけど。青森といったら青森山田しか知らなかったんで」

実は北條も当初は青森山田高校を志望していましたが、光星学院の前監督である金沢成奉氏の熱心な勧誘により転じた経緯があります。田村もまた、甲子園出場よりもプロ野球選手になることを目指して光星学院を選んだといいます。

「中学のチームの指導者に甲子園に行きたかったら青森山田、プロになりたかったら光星へ行けって。光星の金沢さんは指導がうまいと評判だったんです。坂本勇人(巨人)さんとかも育てていたので。僕も甲子園に出るよりもプロ野球選手になりたかったので」

家族の意向と新たな挑戦

田村が遠方の学校を選んだ背景には、家族の強い意向もありました。

「親から言われてたんです。『帰って来られへんように遠いところでやれ』って。だから、そもそも関西の高校に行くつもりはなかった。親父もそうだし、兄貴2人もそうなんですけど、みんな大阪の高校に行って、野球を辞めて(家に)帰ってきてるんで。だから母親は遠くへ飛ばしたかったみたいで。地方に行けば帰ってこれないじゃないですか」

八戸市の寒々しい冬や厳しい環境にも、田村はまったく抵抗を感じなかったといいます。むしろ、その環境が彼の成長を支える一因となりました。

早熟のハンディとプロへの道

しかし、高校に入ってからは身体的な成長の限界を感じ始めた田村。それでも打者としての可能性を信じ、努力を続けました。そして、2012年のドラフトでロッテから3位指名を受け、プロ入りを果たします。

現在、大谷世代で唯一NPBに残る田村龍弘。彼のキャリアは、選択と決断の連続であり、周囲との比較や環境の変化を乗り越えてきた証でもあります。今後も彼の活躍から目が離せません。

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